戦後すぐに日比谷で開業した千代田クリニックの古川正重は、美容外科の歴史とともに歩いてきた人だ。1941年から敗戦までは、海軍の軍医として南方のラバウル、マーシャル群島に駐留した体験がある。「人を助けるための勉強をしたのに、人を殺す者と同居する戦争の現場は矛盾だらけでした」と古川は言った。「私は敵味方関係なく、負傷者の治療に専念しましたよ。日本の形成外科は皮肉なことに、戦争によって発展しました。原爆でひどいヤケドの患者が出たところから始まっていくんです」。1955年、原爆乙女たち25人がニューヨークのマウント・サイナイ病院に招かれた。形成外科の権威、バースキーが指揮を取り、すべて無料奉仕で原爆乙女たちの負傷の手術を行った。治療は1年半続いた。原爆乙女たちがアメリカへ渡った翌年の1956年、東大医学部の整形外科特別治療班に、日本で初めて形成外科の診療科目がおかれた。さらにその2年後、第1回の日本形成外科学会が組織される。「新憲法ができ、人権尊重ということが言われ始め、外見を直す外科も必要である、ということが認められてきました」と古川は言った。学会の中には、実質的には形成外科と美容外科の両方が含まれていた。しかし、美容外科への理解は医者の中にも薄く、形成外科に重きがおかれた。戦前に細々と芽を出した美容外科は、民間で急速に広まっていったが、形成外科学会は美容外科に対してあいまいな態度をとりつづける。日比谷パークビルの地下に、アーデン山中美容院がある。約束の時刻よりやや遅れてガラスの扉を押し開くと、アーデン山中−山中豊子(81)は扉の脇に座っていた。花柄のジャケットをはおり、赤いスカートに5センチヒールの黒いパンプス、パーマのしっかりかかった栗色の髪と、細い指に光る5つの指輪、銀色のマニキュアの爪…その年齢の女性としては珍しく、原色をまとって違和感がない。私は千代田クリニックの古川から彼女を紹介された。「原爆乙女」の援助に関係した人として。同時に彼女は、戦前にアメリカで本格的なパーマネント・ウェーブを勉強し、美容の技術を日本に導入した先駆者でもあった。豊子は40年近い昔のことをよく覚えていた。「原爆乙女たちはアメリカに2年ほど滞在し、治療をうけて帰ってきました。と言っても、ヤケドを負った時に手がくっついてしまっていて、うまく移植手術が受けられない人もいたし、顔の傷のつっぱりがとれない人もいた。でもみんな生きていかなくてはならない。それでなにか技術を身につけようと決心したのね」。25人の原爆乙女のうち、1人はアメリカ滞在中に死亡していた。麻酔の初歩的なミスたった。また、帰国後数年のうちに2人が相次いで死亡。1人は胃ガン、もう1人は自殺だと言われている。残りの22人はアメリカやカナダに移り住んだり、帰国して技術を身につけ職についたり、結婚したり、それぞれが自分の新たな生活に踏みだした。そのうちの3人は、帰国後、豊子が校長をつとめるアーデン山中美容学校で技術を習った。豊子は故郷の広島を離れ、東京から軽井沢へ疎開していて被害を免れたが、広島の実家は全員被爆した。妹が原爆の後遺症で苦しんでいたために、彼女は「被爆者の力になれることはなんでもしよう」と決意し、帰国した乙女の世話をすることにしたという。豊子は原爆を投下した「エノラ・ゲイ」のパイロット、クロード・エザリーヘ手紙を出したこともある。「エザリーさんは自分が悪かったのだ、とノイローゼになって病院に入っていたの。それで世界各地から励ます手紙が届いていたの。でも、私たちは自発的に手紙を書いたんではない。『日本人はあなたのことを恨んでいない、もう忘れましょう』というような英文を見せられて、原爆乙女たちのサインがほしいっていわれた。私は彼女たちの世話をしていたし、英語もできたでしょ。どうしようかと、しばらくはみんな迷いました。そんなに簡単に、恨んでいないって言えない。でもアメリカで手術してもらってずいぶんめんどう見てもらったんだから嫌とは言えないし、結局は私が乙女たちにサインをさせたの」。この手紙は非暴力反戦運動の国際組織FOR日本支部などが企画したものだった。手紙の最後は「戦争という野蛮なものをみんなの力でなくそうという、りっぱな仕事をしている人たちの仲間にはいってくださることをお祈りいたします」となっていた。
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